萬松寺の歴史年表
「中世」
中世から近世にかけての当寺の寺院経済、布教活動などについては時代が戦乱記で大きく 揺れていたので全く不明である。
「徳川時代」
徳川3代将軍家光公の慶安元年(1648)住持8世喜叟座元代以来代々将軍家より御朱印 七石を賜っている。寛文年間(1661~72)第11世祥翁喜和尚のとき失火により焼亡 古記録を失したことが立川市普済寺所蔵の古過去帳に記載されていた。文政11年(1828) 林述斎編の「新編武蔵風土記稿」には「本堂8間半に6間、南向き、本堂薬師如来は木の坐像、 高さ1尺5寸ばかり」とあるがいまは消失して在しない
「明治時代」
明治2年(1869)神仏混交分割に際し、当所小字馬場にあった真言宗清浄院が廃寺となったため、 その檀徒のうち44戸が当寺に入檀を認められている。また同年4年(1871)には本堂が 「小野郷学」の教場となり村民および近郷住民の教育機関に利用されている。
「大正時代」
大正12年(1923)9月1日関東大震災のとき本堂が傾き鐘楼、土蔵などが倒壊している。
「昭和時代」
昭和初期には本堂を修養道場として郷土の青年子女の一夜講習のために解放している。 昭和18年には天明5年の銘のある梵鐘が太平洋戦争遂行のために供出させられていまはない、 同20年(1945)5月25日夜半に、米国爆撃機の帝都空襲の際に焼夷弾多数を 投下されて山門土蔵を除き本堂庫裡玄関物置および什物書籍類1千余冊をすべて消失した。 たまたま当夜本堂には集団疎開による東京都品川区鈴ヶ森国民学校児童職員寮母ら約50名 が、ここを「学寮」として使用し起居していたが被災と同寺に全員無事に近くの岩子山千手院に 避難している。同24年に仮本堂を建立、同38年庫裡を再建。同57年には本堂客殿を建立し 開山600年遠年諱小斎会および本堂客殿落慶法会を厳修する。