小町井戸伝説
武州多摩群小野路村小野山萬松寺略縁起
萬松寺略縁起は1748年当山15世天外碩源和尚が筆録したものを訓読になおしたものです。
それ当寺本尊薬師瑠璃光如来の由来を尋ねるに、その昔一人の仙人、虚空より飛び来たり、 山の峰に霊水を湧出せしめ、その辺に住居す。時の人さらに知らず。ある時、里人彼の仙人を 見て恐れて近づくことを得ず。彼の仙 里人を呼び近づいて語っていわく。この水はこれ人間最上の薬王水なり。一切の病は、 この霊水を呑むときに諸病ことごとく癒えずということなし。七々四九日まで飲みて 癒得ざるは、これ即ち定業の病なりと。知るべし外病は癩病諸瘡眼耳病などはあるいは洗い、あるいは呑み 信心堅固なる時は病苦ことごとく除きて心身安楽を得べしと速やかに語り給う。里人事を聞きて近里の病者に 語る。病者即ち教えに従ってあるいは呑みあるいは洗いて病苦ことごとく除く。諸人不思議の思いをなす ところに彼の仙人、何時となく失せ給いてただ一個の薬師如来の尊像あり。里人堂を建立しその内に安置し 奉る。水はこれ仙人の加持し出せる水ゆえに仙水と名づけたり。説に天竺の無熱地を表すと云う。中ごろ人皇 五十代垣武天皇の御宇延歴九年庚辰歳夷国より悪鬼ども来たりて、この山を奪取して近里を悩ます処に 田村将軍、延歴二十年辛乙歳九月八日の夜中に悪鬼どもを追い払い再びこの山を取り返し、東夷は武蔵野に 引き退きこの山に将軍と御前と二度逢い給う。殊にこの所ににて綸旨頂戴あり。なおまた御前をば留め 置き奥州まで攻め下り、東夷ことごとく追い討ちし立ち帰り給い、この山にて大利を得る。殊に綸旨頂戴 の地なるゆえ、御前の願いにて当方守護天下安全のため直ちに伽藍建立し給う。将軍ならびに御前深く 薬師如来を信仰し給い、平等上人を住ましめ、夷国より永く悪鬼の襲い来ることなからしめむがため ご祈祷これあり。その後小野小町、悪病を請け、朝下を退き京近き霊仏霊社に詣りて祈れども病苦 印なきゆえ、この山の霊仏仙水の徳を聞きて東国に下り、この山に三七日篭れども病苦さらに印しなきゆえ 夜明けなば立ち出でむと思いて薬師如来に暇乞うの歌あり。
南無薬師諸病悉除ノ願立テ身ヨリ仏ノ名コソ惜シケレ
と詠み、少し真眠たまうとき夢幻の如くにて薬師如来の返歌あり。
時雨ハ只一時ノ者ゾカシ小町ガミノカサソコニヌキ置ケ
小町、夢醒めて後我が身を見給えば悪瘡少し癒湯。
小町いよいよ心身堅固にして誓願を立て千日篭居し仙水を呑みあるいは洗い給えば悪瘡ことごとく平癒す。 その後この山の麓に山賤と伴い三人子息を儲け給う。それよりこのかた又里となり小野小町村と号す。 いつの頃からか小野路村という。その後人王八十二代御鳥羽院の御宇建久3年壬子歳、征夷大将軍源頼朝公 、この山の霊地仙水の徳を聞き給いて、山の峰に城を築く。即ち工藤左衛門祐経に賜り、寺をば外山へ移す。 本尊薬師如来は霊仏とて御前鎌倉へ向い奉り守り本尊と深く信仰あり。即ち一寺を建立し仙水寺と名づけ給う。
年久しくして小野路城も滅し鎌倉の仙水寺も後なく本尊薬師如来のみ残り給う。大應国師の御弟子に 滅宗和尚という人あり。姓は嵯峨天皇第十二皇子河原院の後胤、尾州中島城主中島蔵人の長男なり。 圓光大照禅師と勅謚して諱は宗興と号す。その後人皇九十五代醍醐天皇の御宇、元徳二年庚午歳、大照禅師 当寺を再建し鎌倉にある薬師如来の尊像も再び取り返して安置し給い寺をば東光山萬松寺と名づけ給う。 その後当寺は村開闢の寺なるによりて小野山と号す。本尊薬師如来再び当寺に返し安置し奉ること今年まで 四百三十四年になる。今に至るまで霊現奇特その数を知らず。殊に仙水の霊池今に至りて城山の峰にあり。 百日のひでりにも池乾くことなし。城山を天瑞という。これ即ち開山の塔所なり。塔を天瑞塔と号す。 今峰の大松これなり俗に仙瑞と云うは誤りなるか。元来仙人の住所なるに依りて然るべき過。この意後 学眼を着けよ。
開山勅謚圓光大照禅師滅宗宗興大和尚の示寂は人王一百代後圓触院の御宇永徳二年 壬戍歳七月十一日。今日まで□□三百八十三年となる。大照禅師当寺建立の後破壊す。時に龍山和尚中興す。 今に至りて龍山和尚の諱名ならびに年号当月知り難し。後学意を着けて可なり。
右此の記東山前堂、大小檀越の白髪の翁を近くに呼びて当寺の往古を問答す。あるいは古書に対して、その大抵を伸無。 然りといえどもその書甚だ仮名文字を加う。延享三龍宗丙寅孟正、予相陽において開山大照禅師の年号月日 ならびに俗姓聞くことをえたゆえこれを改めかきてもって永く後世に残す者なり。
茲時寛延改元龍集戍辰天仲冬吉祥日
小野孤頂現住源天外叟焼香三拝欽書