開山勅謚圓光大照禅師滅宗宗興大和尚略伝
禅師は第52代嵯峨天皇の第12皇子河原院(源融)の後胤で尾州中島郡中島村(愛知県一宮市 萩原町中島)にあった中島城主中島蔵人の子である。延慶3年生まれ。諱は宗興、字は滅宗と 号した。
禅師は中島郡矢合村にあった円光寺で剃髪し柏庵宗意に師事し、柏庵が鎌倉建長寺 天源庵に住すると大應国師を慕ってその門に入る。業成って中島郡に帰り父覚阿、母勝観の恩に報いるため 妙興報恩禅寺を創建された。その工事は貞和4年(1348)禅師41才の時より着工され、完成は18年 後の貞治4年(1365)である。このほか禅師は尾張・駿河・近江に接待院を開き、また熱田神宮の塀を 修復し、尾張国分寺堂(永和元年)を建立したといわれる。
禅師は應安5年(1372)京都 東福寺の首座となり、ついで龍翔寺住持として大應録を刊行している。晩年は妙興寺末の矢合村にある 円光寺を愛して塔所も生前からこの地と定めて天瑞塔を作っている。いま円光寺の本堂左側にある土壌上の 宝筐印塔が禅師の墓と言われている。なお禅師の創建であることが明らかにされてる寺院は、神奈川県海老名 市国分にある龍峰寺および同寺に併合された清水寺、愛知県稲沢市子生和町の慈眼寺などである。禅師は 永徳2年(1382)7月11日天翔庵で示寂。73才。圓光大照禅師号は第101代稱光天皇應永33年 (1426)の勅謚で有る。
昭和40年刊「妙興寺誌」には禅師の出自について次の如くしるされている 。(前文略)「すなわち嵯峨天皇第12皇子(左大臣源融)の末裔の嵯峨源氏に属する人とされる。この 嵯峨源氏の末流が何時の頃かおそらく平安末期ごろまでに尾張国中島郡に土着し、地名をとって中島氏を稱 するようになったらしい。古誌類によれば源融13代目の子孫がはじめて左右衛門尉宣長として尾張中島村 を領知したと伝えているが確実な考証はできない。宣長は承久の乱に朝廷方となったので鎌倉幕府に 所領を没収されたが愁訴の結果、延應元年(1239)9月に屋敷田畑を返して貰ったことが「東監」にみえる。 この宣長の子孫は歴代「蔵人」と号してるので、禅師の父蔵人が宣長から何代目の蔵人にあたるかは不明で ある。禅師の生年延應3年から比定しておそらく東監所載の宣長の孫に当たる人ではないかと思われる。」 とあり、
禅師の父母の墓として「張宗雑志」には
迎接院殿一奇覚阿大居士石塔 貞治五年三月十五日
十梅院殿慈海勝観大姉石塔 歴應元年三月 二十九日
とあって、母勝観は禅師妙興寺建築に着手した貞和4年より10年前に、父覚阿は建築落慶の翌年に没していることがわかる。
なお中島氏は戦国時代の中頃、新たに勢威をもちはじめた斯波氏、 織田氏などから、その所領を押領されて次第に没落の運命を辿ったものと推定されるが詳しいことは 分からない。そのうち今日では東京都中央区日本橋、茨城県行方郡玉造町、愛知県尾西市富田、大阪府枚方市 岡新まちなどに後裔と称する中島氏がいられることが「妙興寺誌」に記されている。
(参考、妙興寺誌 稲沢市史)