萬松寺由縁略記

萬松寺由縁略記

 

「新編武蔵風土記稿」(文政11年刊)第三巻には次の如く記されている。

村の西にあり。小野山と号す。臨済宗芝崎村普済寺の末寺なり。寺領7石の御朱印を賜り禅師と勅開山宗興、 永徳2年7月11日寂す。圓光大照謚せり。開基を覚翁等公と号す。寺僧の伝に等公は仙術を得し奇特の人なり 。境内西の方わき出す水はかの旧跡なるをもって仙水と名づくなりと言へり。然れどもさせる証 跡もあらざればおぼつかなし。(以下略)とある。

また「武蔵名所図会」には当山について次の如く記されている。「小名萬松寺谷戸というところあり。(中略) この寺の境内西の方に清水の湧出する小流あり。名付けて仙人水と云う。案ずるにここにて仙人と号しけるのは 西行の「選集抄」あわせるに「西行物語」にも載せたる武蔵野に仙人住みけるかと言いし人なるべし。西行は 鎌倉より武蔵野に出て奥州におもむかんとて野辺に至るに道より五・六町も脇へ入りて読経の声を聞いて尋ね けるに年齢九十有余の人、法華経を読誦すること七万部なり。もとは郁芳門院の北面の侍なりということを 載せたり。その人の住みける地にて仙人水と云うはその人の阿伽の水を汲みし清泉の遺跡なるべし。」 とある。

この清水はいま俗に「小町井戸」とよばれて旱魃のの折りにも湧き水の絶えたことがない。 その井戸一帯の山林は、地続きの小野路城址とともに当山の所有地であったが現在は東京都が「自然環境保全 地域」として管轄し所有している。

当山の開創は鎌倉時代元徳二年、開山は開山勅謚圓光大照禅師滅宗 宗興大和尚である。本尊は薬師如来。 開山滅宗宗興大和尚は幼にして尾州中島郡矢合村の圓光寺で剃髪、大應国師 を追慕して建長寺に入り柏庵宗意(神奈川県綾瀬市吉岡にある済運寺の開祖)に師事、修行を了えて郷里に 帰り妙興寺の創建に着手したのち再び関東に遊び八禅刹を建立したと云われる。

当寺がそのうちの1寺であることは当山開山塔銘にも刻まれている。当時は滅宗宗興が創建したのち 破壊されたといわれ第2世龍山和尚が、降って第10世北榮和尚がそれぞれ中興していることは、 その卵塔の銘に明らかであるが、その年代や事由などはわかっていない